自分探しの旅-2009秋

 前々から計画していたがふと思い立ち、自分探しの旅を始めた。そう、自分探しは突然思いつかなくてはならない。前から考えてたけど。
 手始めにノートに「自分」という文字をひたすら書き連ねていく。「自分」が2ページを埋め尽くすほどになってくると、この漢字の意味が分からなくなってきたり、こんな形で合っていたか不安になってきたりする。ゲシュタルト崩壊ってヤツだ。いいぞ、順調に自分を見失っている。
 そして突然、衝撃の事実に気付く。自分探しといえば18才。漢字で書けば「一八」。「自分」から「一八」を引くと「白刀」になるぞ!おいおいおい、確かに自分探しをする者には研ぎ澄まされたナイフのような心は必携であるが、白刃の付いた刀はマズイでしょ、いろいろ事件があって警察の取り締まりも厳しいしさー。下手をすれば実刑だ。自分探しの中に隠された危うさに、早くも冷や汗をかく。
 自分を喪失すると同時に図らずしも自分の危険さを知るとは、すごいぞ旅立つ前から自分ゲットだぜ!とうかれた瞬間に足をすくわれるのも自分探しではよくある話。勝って兜の緒を締めたい所だが、兜がないので代わりに頭からヤカンをかぶる。足もすくわれないように竹馬に乗ることにする。鏡に映るオリジナリティー溢れるシルエットはなかなかだ。これなら30JP(自分ポイント)は確実にいくだろう。これだけ準備万端に整えれば潮干狩りより簡単に道中落ちている自分をかき集めることができるに違いない。
 よし、自分探しの旅はこれからだ!次回作にご期待ください!あとどうでもいいけど、これまで一度も一人称が出てないところも自分探しっぽいよね!

ずぎゅーん

 ぎゃるーん、どきゃーん、ばりばりぱららら。というわけで、テンション高めです。先日のうつ気味から打って変わって躁気味でございますよー、奥さん!公園デビューでもしちゃおうかしら。
 圧力釜の内側の焦げ付きを落としたり、燃えないゴミをまとめたり、布団を粘着ローラーで掃除したり、風呂も入るし顔洗うし歯も磨く。これぞ健全な人間の姿ではございませんか。うつっぽい状態のときの僕が小汚いを通り越して大汚い存在になっているかは、このあたりの描写から逆算して容易に想像がつきますね。
 twitterやブログを書き始めてから、いまさらになって気づいたけど、僕は軽く躁鬱っぽいところがあるなー。まあ、この程度なら病気として認定されない範囲だと思うけど、念のため一度病院で診察してもらおうかしらん。と言っても、僕、実は国民健康保険が切れてます。無職期間長すぎて。
 それで市役所に相談に行ったら、なんと失効した期間からさかのぼって保険料を支払わないと加入できないんですって、奥さん!んまー、なんてことざましょ、任意保険という仮面をかぶったオールオアナッシング!保険が利かなきゃ、一回の診察でもたぶん5千円はかかっちゃうよ。というわけで断念。就職して会社経由で健康保険に加入したら過去の分は払わなくても良いようです。よくわからないけど。腹をくくってとりあえず働く、それから病院という手順しかなさそう。
 ここで話を最初に戻して、躁気味とやる気について。躁気味になるとやる気がでるが、やる気がでるから躁気味であるとは限らない。また、躁が酷ければ逆にひとつのことに集中できずに意味不明な行動を積み重ねるだけにもなる。やる気ってなんだろう。やる気を精神的資源と考えて、それを増やす方法とは何か?それを減らさず効率的に使う方法とは何か?そんなことをつらつら考えたりしながら、根拠のない気分の良さに酔っています。

頭に肥やしをやる1つの方法

 あなたは賢くなりたいですか?と言うわけで、賢くなる方法、というかその前段階として賢くなるための材料を集める方法をさらっと書いておきます。
 タイトルは売れ線狙ってます。さすがに"たった1つの方法"とまで言い切る度胸はありませんでした。なぜ"頭がよくなる方法"と書かなかったかというと、頭がいいという言葉が意味する範囲が大きいところともうひとつ、この方法を実践すると頭の回転が遅くなり目の前の物事を処理する速度が低下するからです。この方法の利点は長期的に行うことで多くのことから気づきと発想を得やすくなり、その結果賢くなることにあります。すぐにどうこうという事はないけど、後々に実りがある。そういう意味で"頭の肥やし"といった表現になります。
 さて、前置き終わりまして、肝心の方法さらっといっちゃます。
 頭に肥やしをやる1つの方法とは


  ある知覚で得た情報を他の知覚で再構築・反芻することです。


 以下、具体例。

  • 街中を歩いて目に映る看板などの文字を頭の中で音読する。
  • 人から話を聞きながらポイントとなる部分を手を動かして紙に書き直すイメージをする。
  • スポーツ中の自分の動きをその場で絵と言葉を使って過程から結果まで頭の中で説明する。

 これは見えるものを見るための訓練といえます。慣れてきたら疲れない範囲で雑多な情報に対象を広げていきましょう。

テンションが低くならない日にするために

 さっきの続き。
 で、得したり、褒められたり、成功したり、そんな嬉しいことがあっても、そういった感情とも距離を置く。身心感悟とはで解説した"感情をつまみ上げて形を変える"をやる必要がある(あくまでも形を変化させることです。押し殺すと色々不具合が出て最終的に詰みます)のではないかと直感する。
 飛び跳ねたいことがあっても、ぐぐっと形を変え、堅実な一歩のみにする。世の中に吹き荒れる強風に身をさらわれてしまわないために。

テンションが高い日

 一日中気分が高揚していた。普段より行動的になり有効な仕事ができた。だが、この気分をそのまま受け入れることもまずいのではないかと思う。極端なハイテンションのあとには必ず布団から一歩も動けず腹をすかすようなローテンションに切り替わるからだ。快を食らえばいつか跳ね返って不快になるのではないか。
 樹木になったように日々を淡々とこなせるようになりたい。

Twitterやっているのにブログやる意味はあるのか

 言いたいことはタイトルのまんま。Twitterではまあ毎日思考のウンコを垂れ流していればそれなりにフォロワーが増える。ふぁぼったーでふぁぼられをチェックすることもモチベーションの維持に繋がる。それに比べるとブログは敷居が高い。まず、ひとつひとつのエントリーにそれなりの文章量がないといけない。いや、まあ必ずしもそうでなければならないということはないが、140字の範囲で気軽につぶやけるTwitterと併用している以上はそのような住み分けになってしまう。今までTwitterで散文的なpostばかりしているので気付かなかったが、文章にまとまりを持たせる作業というのは楽しくないわりに頭を使うし時間がかかる。
 ブログで書く意味があるとするなら、思考のウンコがでかすぎて140字じゃまったく足らない場合か内容に価値があり広く長期にわたって人に見られたほうが良い(と自分で思う)場合のどちらか。